知恵熱が出そうな話

ここには、文部科学省・法人から要求されるさまざまな事柄についての、私用備忘録を載せています。なんせ、省庁・役人・審議会用語のオンパレードなので、すぐにわからなくなってしまう。 同じ悩みの人には役に立つかも...

「1984」状態というか、某ドラマの「現場で起きているんだ!」という状況だわな。

授業内容と方法の改善

FD(ファカルティ・ディベロップメント)

大学の授業改善活動らしい...と解釈して、いろいろ真面目に改善案を考えて自主的に実行していると、どつぼにはまって無駄働きになる。

「このような組織的な教育体制を構築する一環として、個々の教員の授業内容・方法を不断に改善するため、全学あるいは学部・学科全体で、それぞれの大学の教育理念・教育目標や教育内容・方法について組織的な研究・研修を実施することが重要となっています」(文部科学省のWebより)

悪文(長すぎる複文)だが、要は「組織的」ということだ。個人的な取り組みはどれだけすばらしくても努力しててもFDではない。スカみたいな取り組みでも、組織的活動ならFDだ。

文科省のWebに、「教員個人の授業用Q&AのWeb公開」がFDの例で掲載されているが、これは定義からするとFDではありえない。役所はそういうミスをしないので、おそらく組織的に取り組んでいる個人活動(矛盾してる言いようだなぁ...)なのだろう(専攻や委員会に届けたり審査を受けるのか?)。組織的活動がこのレベルも指すなら、個人的取り組みも、組織にお墨付きをもらえば、FDということだ

うちの大学も、個人の授業改善活動の届出制を作ったらよいな。

芸術系大学(実技・レッスン)で、実施しやすいFDのアイデア

芸術系大学では講義系科目へのFD以上に、実技科目やレッスンに対するFDが重要なのだが、FD活動の専門家に問い合わせた先生によると、そういったFD活動について、役に立つ研究・報告はまだないと言われたそうだ。そういうわけで、少人数・個別指導という状況で役に立つ何らかのFD活動を、考え出さなければならない。それは、実施しやすく(継続のために大事だ)、教員学生の双方に効果があることが必須だ。

実技・レッスン科目でのFD活動には、避けられない特殊な問題がある。困ったことに、少人数・個別指導という授業としては長所である特性が、FDに困難な状況を引き起こしているのだ。たとえば、「あまりに一クラス(コース・専攻のある学年・特定の楽器etc.)が少人数で、授業アンケートが使えない(匿名性が確保できない)」、「授業形態が本質的には個別指導なので、同じ授業科目内でも学生ごとの進度・適性に合わせた教材を使って異なる指導が行われている。このため、特定シチュエーションでの授業改善案が一般化できない(同じ授業内でも、相手が違うと的はずれになることが普通)」、同様の理由で「授業参観がほとんど意味をなさない(学生を担当教員並みに理解していなければ、参観しても何も言えない)」などが、問題としてあげられる。この様な状況での授業反省会・授業アンケート・授業参観など一般的なFD活動は効果がありそうもない。それどころか、その様な活動では、取り上げる内容が、授業の内容・技術ではなく、教師個人の人格や学生との相性といった問題に、たやすく集中してしまうだろう。それは、とてもまずいことである。FD活動という号令がなくても、たいていの教員は授業の効果を上げたいと思っているので、そういう気分をだめにするようなFD活動では本末転倒である。

他のFD委員の先生と話し合っていてふと思ったのだが、「学生を含めた授業に関する話し合い」が、芸術系大学でのFD活動として、一番取り組みやすいのではないだろうか?外部へのアピールとしても役に立つこともあってか、各種報告を読んでいると、この種のFD活動への感想は好意的である。もし、これが簡単に実施できるなら、やらない手はない。

一般大学ではこのタイプの活動は、場所や時間の設定などが大変なうえに、学生と教員の間に距離があることもあってか率直な話し合いが難しいという問題がある。しかも大人数の前で発言することは、学生には抵抗があるため、一部の学生のみの意見しか出ないということが多い。初めから学生代表を対象にしてる報告例すらある。しかしながら、本学ではこれらの問題は最初から克服されている、と考えて良いと思う。一クラスの人数が少ないので、大抵の教室で一学年どころか複数の学年を集めることすら可能だ。おまけに、学生教師間の距離は、普段の個別指導のおかげで十分近いといえる(一般大学でいえば、研究室配属やゼミ開始後しばらくたった状況が、一年生からある)。もとが少人数なので、学生同士は顔見知りどころか友人である。遠慮や発言することへの抵抗は最小であるといえるだろう。

もしかすると、この活動は新たに作る必要はなく、今までの習慣をちょっと変更するだけで済むのかもしれない。もともと長期の休み前には、打ち上げをやっている専攻・クラスが多い。そういった場では、しばしば個々人の芸術活動についても話題にしているのだから、そういった話のうち授業(レッスン・制作)関連のものを後日参考にできるようにしておけば良いのだ。さすがに酒の席での話を記録しても不真面目ととられかねないので、酒が入る前に1時間でも30分でもよいから、授業の感想や要望を話し合って正式に記録をとることにしておけば良いのだ。これで「学生からの意見を直接取り上げるFD活動」のできあがりだ。さらに、酒が入った後のことも、教師が個人的に参考にすること自体には問題なかろうし、むしろ本音が聞けて有効かもしれない。

この活動では、個別の授業ではなく特定の期間のすべての授業を対象とすることになるので、特定の教師の授業改善につながらないという批判が出そうである。しかし各教員には学生の発言が自分の授業に関することかどうかはすぐに分かるであろうから、個別の問題が全くないがしろにされるということもあるまい。また、実技・レッスンのFDでは、特定の教師学生の組み合わせにおける一過性シチュエーションを個別に取り上げて検討することよりも、専攻の授業全体の方向性や内容を議論することの方が役に立つのではないだろうか?

改善の評価

そのうち書くが...。これって前提とする達成度曲線のモデルが、まずくないかという話(いつまでも改善し続けられるなら、どの授業もいつも最低ということになる。単純な無限の議論だ。漸近線のあるモデルに変えるべきだ)。

成績評価とシラバス

厳格な成績評価の実施

これも紛らわしい表現だ。厳密に成果を得点化するためには...と考えると、やっぱり袋小路に入り込んで...

結論は、教員個人にとっては、根拠の記録が残る成績のつけ方をすることだけだ。この根拠だって、ペーパー試験の得点でよいことが文科省のWebにある各種答申に読めるので、なんだかなぁというものだ。残りの部分は、教員個人ではなく大学が、成績を厳密に利用するということだ。そう考える根拠を以下に書いておく。

文科省のWebに「学生に対してあらかじめ各授業における学習目標や目標達成のための授業の方法及び計画とともに,成績評価基準を明示した上で,厳格な成績評価を実施すべき」とあるが、成績評価の例としてGAP制度があげられているので、成績をつけることにではなく、つけた成績の運用(進級・卒業がらみ)のことを指しているらしい。

ところが、「実務科目の評価については(平常点のみによる評価は成績評価の基準が明示的とならない面もあることを考慮し、)試験の成績と併用する」と大学審議会の議事録(法科大学院)があることから、点数を付けるときは基準を使って評価しろということと、客観的(単なる数字だが...)な形で残る評価を用いろという「評価の手段」を指している。こっちが教師個々人に直接関係がある部分だ。

ここには定義の混乱がある。レベルの異なるいくつものことがらを、こんな風にひとつにまとめて定義するという習慣を私は持たないので、説明をうければうけるほど私もつられて混乱するのだ。

そういうわけで、うちのような芸術大学で実行せざるを得ない教員個人の内面に基準がある評価でも、成績の根拠とした得点を記載すればOKだ。要は、形に残る根拠が記載されていればいい。が、次の成績評価基準の話を考えると、得点なしでいきなり評価した方がより良いのではないだろうか。もともと感性を得点化し、もう一度、幅のある成績の区分(秀優...)に変換するというのは不毛な作業だと思っていたのだが、下の話によると...

成績評価基準の設定と周知

これも言葉足らずな話である。普通に「評価基準を事前に公表、周知」すべきと言われたら、まず思いつく意味は内容は、上記の会議録の平常点への言及部分の文脈でのそれだろう。つまり「採点の基準・得点化の基準」だと。だが、どうもこれが怪しいのである。同じ会議の議事録にこうある「成績評価基準については、目標とする達成度、科目の性質、配当年次、同一科目内の公平性等を十分検討した上で設定することが重要」。つまり、評価基準は「素点」の話ではなく、点数を成績の区分(秀・優...A・B・C...というもの)に分ける話なのだ。

これを読んでびっくりしたのだが、素点と成績の区分を事前に決めてない大学なんてあるんだろうか?どうもそういう話ではなくて、単純な素点成績変換をやめて、言葉によって「最低合格ラインレベル」「平均的な達成レベル」「学士レベル」と再定義しなさいということのようだ。「ディプロマ」や「学位の質の保証」の部分を調べてると、どうやらそうとしか思えない。こういうときには、混乱を避けるために専用の用語を作っていいと思う。

ついでに忘れないように書いておくのだが、前項目に出てきた「平常点は評価基準の明示性にかける...」の方は、素点の話だ。ここにも混乱が巣食っている。それは置いておくにしても、この平常点の意見はあまりに底が浅い。平常点とは「授業への出席、授業態度、レポート提出状況・内容等」だそうだだが、平常点で一番あいまいな授業態度だって、授業ごとに記録をとれば基準に合わせて採点できるのじゃないか?出版されているFD活動の記録に、そういう取り組みしている大学の授業研究報告があるぞ。

と考えていて、今更ながら気がついたのだが、素点の意味では、ペーパー試験の得点だって成績評価基準が明示的ではないのは自明ではないだろうか?例えば、英作文の問題でスペルを間違ったら、

  1. その部分の作文を0点
  2. 一律に1点減点する。
  3. 単語によって減点の程度を変える

こんなことまで、シラバスに書く大学はありえないだろうから、どれを選んでも基準は明示的ではないので、上記の平常点と同様に教員個人の恣意的な判断ではないだろうか?それとも私が知らないだけで、どこかにペーパー試験のガイドラインがあるのだろうか?

せこい話と思う場合は、もう少し上のレベルにもこの話は当てはまる。単語テストと作文テストが一度ずつあったとして、おのおのが、100点:0点と0点:100点をとった学生は、得点が100で同じなので同じ評価なのか?ここで、そんなことはあるまい、と思ったら、それは恣意的な判断を行っていることを肯定しているのだ。極端な例をあげたが、基礎レベルのペーパーテストで、問題が一問だけということは、あんまり考えられないので、すべての試験にこの問題(人間による個人的な選択)は存在していると言える。

この点を追求していくと、試験の意味が消滅してしまう。ある水準に達しているかどうかを調べるために、どのような問題を選んで、どう配点するかを決めることは、誰にとっても同じ解のある問題ではない。したがって、このような段階は明示的に記載されなければならない。どのような解にも個人的な判断が介在するのだから、その基準は試験問題そのものに依存する。つまりこの段階の明示には、「事前に、実際に使う試験問題と回答例を示して、採点例を表記する」しかないだろう。これがいかに馬鹿げているか、自分で書いていて恥ずかしいのだが、上記の議事録的な「明示的」を真剣に考え始めると...これは詭弁だろうか?

シラバス

言いたいことはあるが...まだ書いてない

ハラスメントを巡る混乱とシステムの不備

「水戸黄門」を求める発言が大学の会議でもなされることがある。大学教員がそれではまずいだろうと思うのだが、 ハラスメントや個人情報を巡る出来事や議論に巻き込まれると、私も...

「弱者は正義」という奇妙な偏見がある社会では、ハラスメントが元々「強者vs弱者」という構図だから、 議論が益々ゆがむのか?二次被害対冤罪のバランスとか考えて泥沼に落ちていたのだが...

参考になるページがあったのでとりあえずメモ。

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